1. はじめに
地震学における「スロースリップ」(Slow Slip Event, SSE) は、従来の地震学の常識を覆す現象として、21世紀初頭から注目を集めている。通常の地震が数秒から数分で断層のずれを完了させるのに対し、スロースリップは数日から数年にわたってゆっくりとプレートが滑動する現象である。本稿では、この「ゆっくり地震」とも呼ばれる現象の科学的メカニズムと、巨大地震予測における重要性について論じる。
2. スロースリップの発見と観測技術
2.1 GPS観測による発見
スロースリップ現象は、1990年代後半のGPS(全地球測位システム)観測技術の飛躍的発展により初めて検出された。特に、カナダのカスケード沈み込み帯における観測(Dragert et al., 2001)と、日本の東海地方における観測(Ozawa et al., 2002)が、この現象の科学的認知において先駆的役割を果たした。
高精度GPS観測により、数センチメートル以下の地殻変動を連続的に捉えることが可能となり、通常の地震計では検出できない「無感地震」の存在が明らかになった。
2.2 観測ネットワークの構築
日本では、防災科学技術研究所による高感度地震観測網(Hi-net)や、国土地理院のGEONETといった稠密な観測網が整備されている。これらの観測網により、以下のような詳細なデータが得られている:
- 地殻変動の空間分布: GPSによる三次元変位ベクトル
- 低周波微動: 通常の地震より周波数が低い振動
- 超低周波地震: さらに長周期の地震動
- 傾斜変動: 地表の傾きの変化
3. スロースリップのメカニズム
3.1 プレート境界における応力蓄積と解放
スロースリップは主に、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む「沈み込み帯」のプレート境界面で発生する。プレート境界の摩擦特性は一様ではなく、以下のような領域に区分される:
- 地震発生帯(Seismogenic Zone): 通常の地震が発生する領域(深さ10-40km程度)
- 遷移帯(Transition Zone): スロースリップが発生しやすい領域
- 安定滑り域(Stable Sliding Zone): 常にゆっくり滑っている領域
3.2 摩擦特性と速度・状態依存摩擦則
スロースリップの物理メカニズムは、「速度・状態依存摩擦則」(Rate and State Friction Law)によって説明される。この理論によれば、断層の摩擦係数は滑り速度と接触状態に依存する。
$$ \mu = \mu_0 + a \ln\left(\frac{V}{V_0}\right) + b \ln\left(\frac{\theta}{\theta_0}\right) $$
ここで、
- $\mu$: 摩擦係数
- $V$: 滑り速度
- $\theta$: 状態変数(接触時間を表す)
- $a, b$: 摩擦パラメータ
$(a-b) < 0$ の領域では不安定滑り(地震)が発生しやすく、$(a-b) > 0$ の領域では安定滑り(スロースリップ)が生じやすいことが数値シミュレーションにより示されている。
3.3 流体の役割
近年の研究により、スロースリップの発生には「流体圧」が重要な役割を果たしていることが明らかになってきた。沈み込む海洋プレート中の含水鉱物(蛇紋岩など)が深部で脱水反応を起こし、高圧の流体がプレート境界に供給される。この流体圧が断層の有効法線応力を低下させ、滑りを促進すると考えられている。
4. スロースリップの分類と特徴
4.1 長期的スロースリップ(Long-term SSE)
数ヶ月から数年継続するスロースリップ。東海地方では2000年代初頭から複数回のイベントが観測されており、地震モーメントはマグニチュード7クラスに相当する。
特徴:
- 継続期間: 数ヶ月〜数年
- 等価マグニチュード: M6.5-7.5
- 再来間隔: 数年〜10年程度
4.2 短期的スロースリップ(Short-term SSE)
数日から数週間継続するスロースリップ。日本では西南日本の南海トラフ沿いで頻繁に観測されている。
特徴:
- 継続期間: 数日〜数週間
- 等価マグニチュード: M5.5-6.5
- 再来間隔: 数ヶ月〜1年程度
4.3 超低周波地震との関連
スロースリップの発生時には、しばしば「超低周波地震」(Very Low Frequency Earthquake, VLF)や「低周波微動」(Low Frequency Tremor)が同時に観測される。これらは「スロー地震」(Slow Earthquake)という概念でまとめられ、プレート境界のスペクトルの広い滑り現象として理解されつつある。
5. 巨大地震との関連性
5.1 東北地方太平洋沖地震(2011年)の事例
2011年3月11日に発生したマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の直前、震源域周辺で複数のスロースリップイベントが検出されている。Kato et al. (2012)の研究によれば、本震の約1ヶ月前から前震活動とともにスロースリップが発生し、これが巨大地震の引き金となった可能性が指摘されている。
5.2 南海トラフ巨大地震への応用
南海トラフでは、100-150年周期でマグニチュード8クラスの巨大地震が繰り返し発生してきた歴史がある。気象庁は、南海トラフ沿いで異常なスロースリップが観測された場合、「南海トラフ地震臨時情報」を発表する体制を整えている。
スロースリップの監視指標:
- GPSによる異常な地殻変動
- プレート境界付近の地震活動の変化
- ひずみ計による異常な変化
5.3 応力伝播メカニズム
スロースリップが巨大地震を誘発するメカニズムとして、以下のプロセスが考えられている:
- 応力蓄積領域への応力集中: スロースリップによって周辺の固着域(アスペリティ)に応力が伝播
- 臨界状態への到達: 固着域の応力が破壊強度に達する
- 破壊の開始: 巨大地震の発生
このメカニズムは、クーロン応力変化(ΔCFF: Coulomb Failure Function)の計算により定量的に評価される。
6. 数値シミュレーションと予測
6.1 物理モデルの構築
スロースリップの発生を再現する数値シミュレーションでは、以下の要素を考慮する必要がある:
- プレート境界の形状と傾斜角
- 摩擦パラメータの空間分布
- 流体圧の時空間変化
- プレート収束速度
6.2 予測の可能性と限界
現在の科学技術では、スロースリップの発生は観測できても、それが巨大地震に直結するかどうかを確実に予測することは困難である。これは以下の理由による:
- 初期条件の不確実性: プレート境界の詳細な応力状態は直接測定できない
- 非線形性: 断層破壊は複雑な非線形現象であり、初期条件にわずかな違いで結果が大きく変わる
- 観測の限界: 海底下深部の現象を直接観測する手段が限られている
それでも、スロースリップの監視は「地震発生ポテンシャルの変化」を知る重要な手がかりとなる。
7. 最新の研究動向
7.1 海底観測網の展開
日本近海では、以下の海底観測システムが稼働している:
- DONET(Dense Ocean-floor Network system for Earthquakes and Tsunamis): 南海トラフ沿いの海底観測網
- S-net(Seafloor observation network for earthquakes and tsunamis): 日本海溝沿いの海底観測網
これらにより、陸上観測では検出困難だった海溝付近のスロースリップや地震活動を高精度で捉えることが可能になった。
7.2 機械学習の応用
近年、機械学習アルゴリズムを用いたスロースリップの自動検出や、地震活動パターンの分類が試みられている。大量の連続観測データから微弱な信号を抽出する技術として期待されている。
7.3 国際共同研究
スロースリップ研究は国際的な協力により進展している。環太平洋の沈み込み帯(カスケード、メキシコ、ニュージーランドなど)での観測データを統合的に解析することで、スロースリップの普遍的性質と地域性が明らかになりつつある。
8. 結論と今後の展望
スロースリップ現象の研究は、この20年余りで急速に発展してきた。高精度観測技術の進歩により、従来は「見えなかった」プレート境界の動きが可視化され、地震発生過程の理解が深まっている。
主要な知見:
- スロースリップは沈み込み帯において普遍的に発生する現象である
- プレート境界の摩擦特性と流体圧が重要な役割を果たす
- 巨大地震との関連性が示唆されるが、予測には課題が残る
今後の課題:
- 観測網の高度化: 特に海溝軸付近の観測強化
- 物理モデルの精緻化: 流体移動や温度構造を含む統合モデルの構築
- データ同化手法の開発: 観測データと数値シミュレーションを融合した予測手法
- 社会への情報発信: 科学的知見を防災に活かすための情報伝達体制
スロースリップ研究は、基礎科学としての地震学の発展だけでなく、巨大地震の防災・減災に貢献する可能性を秘めている。継続的な観測と研究の推進が求められる。
参考文献
- Dragert, H., Wang, K., & James, T. S. (2001). A silent slip event on the deeper Cascadia subduction interface. Science, 292(5521), 1525-1528.
- Ozawa, S., et al. (2002). Detection and monitoring of ongoing aseismic slip in the Tokai region, central Japan. Science, 298(5595), 1009-1012.
- Kato, A., et al. (2012). Propagation of slow slip leading up to the 2011 Mw 9.0 Tohoku-Oki earthquake. Science, 335(6069), 705-708.
- Obara, K. (2002). Nonvolcanic deep tremor associated with subduction in southwest Japan. Science, 296(5573), 1679-1681.
- Araki, E., et al. (2017). Recurring and triggered slow-slip events near the trench at the Nankai Trough subduction megathrust. Science, 356(6343), 1157-1160.
本稿は、スロースリップ現象に関する学術的知見を一般向けにまとめたものである。最新の研究成果については、専門学術誌を参照されたい。